コロイドヨードとは?

ことの始まり


ことの始まり

大正七~八年頃、薬学の大家 牧野民蔵・千代蔵の両先生がヨウ素(ヨード)が人体構成上、絶対必要な成分である事に着眼し、「ヨード」の有用と製造について研究の結果、有用性の解明と製造に成功したのが、この「ヨード」剤の始まりです。当初、牧野先生達は、大量のワカメ・コンブを焼却し、その灰から「ヨード」を分離抽出していましたが、少量の「ヨード」しか生産されず、とても採算ベースになりませんでした。しかし、当時としては、この方法以外「ヨード」を採取する事は不可能でした。その後、ヨードが、日本の沿岸地域の一部に限り、地中から天然ガスと一緒に、地下のパイプを通して地上に涌き出るとき、パイプに付着するケースに、含有されていることが分かり、それから分離抽出することが出来ましたが、分離抽出された成分は、無機質ヨードです。無機質ヨードは、体にとって非常に有害なものです。飲用する事は出来ません。

いよいよ始まる挑戦


これを有機質(飲める)ヨードに、変換する研究に取り掛かりました。日本の医学の世界では、無機質ヨードを有機質ヨードに換えることは、現在でも不可能と云われています。飲用可能な有機「ヨード」に転換させる難問題と取組み、辛苦の結果、遂に完成したのが、この飲用「ヨード」です。当時は、東洋医学においては、他に類の無い異色傑出した高貴品として、賞讃され、名称も「マキフチース」と称し各界の話題を独占しました。大正十年のことです。

いよいよ始まる挑戦1
いよいよ始まる挑戦2

大正十二年、その高い有用性が認められ発売しました。販売価格が約五〇グラム(現在頒布のカプセルで約一六六粒)が弐拾圓(にじゅうえん)、当時の大学卒の初任給が、八〜拾弐円(じゅうにえん))位のときですから、一般の人にはとても手が届きません、高嶺の華でした。しかし、当時からどれほど多くの人が助かったか数知れません。その時の余談ですが、本品が活力がみなぎる滋養品と宣伝され、阪神の高級住宅地の帝塚山・寝屋川あたりの富裕層からもてはやされ、秘かに飲用されました。

国内外から注目を浴びたが


国内外から注目を浴びたが

大正七~八年頃、薬学の大家 牧野民蔵・千代蔵の両先生がヨウ素(ヨード)が人体構成上、絶対必要な成分である事に着眼し、「ヨード」の有用と製造について研究の結果、有用性の解明と製造に成功したのが、この「ヨード」剤の始まりです。当初、牧野先生達は、大量のワカメ・コンブを焼却し、その灰から「ヨード」を分離抽出していましたが、少量の「ヨード」しか生産されず、とても採算ベースになりませんでした。しかし、当時としては、この方法以外「ヨード」を採取する事は不可能でした。その後、ヨードが、日本の沿岸地域の一部に限り、地中から天然ガスと一緒に、地下のパイプを通して地上に涌き出るとき、パイプに付着するケースに、含有されていることが分かり、それから分離抽出することが出来ましたが、分離抽出された成分は、無機質ヨードです。無機質ヨードは、体にとって非常に有害なものです。飲用する事は出来ません。

大きな変転が…


大きな変転が…1

その後、牧野先生達の相次ぐ死去により、製造を一時中断していましたが、たまたま、製造方法を伝授されていた関係者が少量を製造、一部需要者に頒布していました。しかし、「ヨード」の優れた有用性に注目していた多くの人々が相集い昭和二十八年、家内工業的製造方法から脱却するため、後援者が集まり資金を募り、「大阪ヨード製薬株式会社」を設立し、製造販売を開始しました。

昭和三十九年、東大(旧制東京帝国大学)ОB会の人達の中に、絶望的だった方々の体調がよくなったという実例が多く出て、その中の一人長岡鉄吉氏(物理学者 長岡半太郎氏の息子)と、前記東大ОB会の著名な先生方の要望で、昭和四十二年、大阪ヨード製薬株式会社を小田原に移転し、社名を「株式会社マキス本舗」に変更、継続して製造しました。

大きな変転が…2
大きな変転が…3

しかし商品の有用性は高くても、生産に限りがあり各店では、売り出し早々売り切れの状態で、販売店と需要者から苦情の殺到でした。相次ぐ販売の障害が重なり、全国展開を休止、やがて、やむなく工場閉鎖の道を選択せざる得ませんでした。

終わりそうな運命を引き継ぐのは…


終わりそうな運命を引き継ぐのは…1

しかし、かねてから「ヨード」の優れた有用性に注目、研究を続け、この「ヨード」の研究に協力していた、聖マリアンナ医科大学名誉教授飯島登博士は「ヨード」を十数年研究し、顕著な効果を発揮した事例を数多く経験しました。中でも体の内側から改良、改善するため健康の保持・増進には最適である事が確認されました。

飯島先生は、現在問題になっている体の課題に対し、この有機性ヨードが有用な作用を及ぼすことを初めて正確に解明されたわけです。そして、先生のご依頼により、誰でもが安心して利用できる、有機性ヨード含有【健康食品】開発へ向けて、作業が開始されてゆくのです。

終わりそうな運命を引き継ぐのは…2

ことの始まり


ことの始まり

大正七~八年頃、薬学の大家 牧野民蔵・千代蔵の両先生がヨウ素(ヨード)が人体構成上、絶対必要な成分である事に着眼し、「ヨード」の有用と製造について研究の結果、有用性の解明と製造に成功したのが、この「ヨード」剤の始まりです。当初、牧野先生達は、大量のワカメ・コンブを焼却し、その灰から「ヨード」を分離抽出していましたが、少量の「ヨード」しか生産されず、とても採算ベースになりませんでした。しかし、当時としては、この方法以外「ヨード」を採取する事は不可能でした。その後、ヨードが、日本の沿岸地域の一部に限り、地中から天然ガスと一緒に、地下のパイプを通して地上に涌き出るとき、パイプに付着するケースに、含有されていることが分かり、それから分離抽出することが出来ましたが、分離抽出された成分は、無機質ヨードです。無機質ヨードは、体にとって非常に有害なものです。飲用する事は出来ません。

いよいよ始まる挑戦


いよいよ始まる挑戦1

これを有機質(飲める)ヨードに、変換する研究に取り掛かりました。日本の医学の世界では、無機質ヨードを有機質ヨードに換えることは、現在でも不可能と云われています。飲用可能な有機「ヨード」に転換させる難問題と取組み、辛苦の結果、遂に完成したのが、この飲用「ヨード」です。当時は、東洋医学においては、他に類の無い異色傑出した高貴品として、賞讃され、名称も「マキフチース」と称し各界の話題を独占しました。大正十年のことです。

いよいよ始まる挑戦2

昭和三年、中華民国、蒋介石総統の依頼によりモンゴル・チベット方面や中国本土で体調に悩んでいる方のため、三年間提供し、有用性を発揮しました。昭和初期、牧野先生は東京麻布に「マキノ治療所」を開設、「マキフチース」「ヨード」を用いて、次々とその有用性を証明していったのです。余りにも連日、盛況なので近在の同業者からネタまれ、妨害されて営業できなくなりました。この為、やむなく診療所を閉鎖し、兵庫県芦屋市に移転、会員制度で診療所を開設、人々の健康の為に従事していました。

国内外から注目を浴びたが


国内外から注目を浴びたが

大正七~八年頃、薬学の大家 牧野民蔵・千代蔵の両先生がヨウ素(ヨード)が人体構成上、絶対必要な成分である事に着眼し、「ヨード」の有用と製造について研究の結果、有用性の解明と製造に成功したのが、この「ヨード」剤の始まりです。当初、牧野先生達は、大量のワカメ・コンブを焼却し、その灰から「ヨード」を分離抽出していましたが、少量の「ヨード」しか生産されず、とても採算ベースになりませんでした。しかし、当時としては、この方法以外「ヨード」を採取する事は不可能でした。その後、ヨードが、日本の沿岸地域の一部に限り、地中から天然ガスと一緒に、地下のパイプを通して地上に涌き出るとき、パイプに付着するケースに、含有されていることが分かり、それから分離抽出することが出来ましたが、分離抽出された成分は、無機質ヨードです。無機質ヨードは、体にとって非常に有害なものです。飲用する事は出来ません。

大きな変転が…


大きな変転が…1

その後、牧野先生達の相次ぐ死去により、製造を一時中断していましたが、たまたま、製造方法を伝授されていた関係者が少量を製造、一部需要者に頒布していました。しかし、「ヨード」の優れた有用性に注目していた多くの人々が相集い昭和二十八年、家内工業的製造方法から脱却するため、後援者が集まり資金を募り、「大阪ヨード製薬株式会社」を設立し、製造販売を開始しました。

大きな変転が…2

昭和三十九年、東大(旧制東京帝国大学)ОB会の人達の中に、絶望的だった方々の体調がよくなったという実例が多く出て、その中の一人長岡鉄吉氏(物理学者 長岡半太郎氏の息子)と、前記東大ОB会の著名な先生方の要望で、昭和四十二年、大阪ヨード製薬株式会社を小田原に移転し、社名を「株式会社マキス本舗」に変更、継続して製造しました。

大きな変転が…3

しかし商品の有用性は高くても、生産に限りがあり各店では、売り出し早々売り切れの状態で、販売店と需要者から苦情の殺到でした。相次ぐ販売の障害が重なり、全国展開を休止、やがて、やむなく工場閉鎖の道を選択せざる得ませんでした。

終わりそうな運命を引き継ぐのは…


終わりそうな運命を引き継ぐのは…1

しかし、かねてから「ヨード」の優れた有用性に注目、研究を続け、この「ヨード」の研究に協力していた、聖マリアンナ医科大学名誉教授飯島登博士は「ヨード」を十数年研究し、顕著な効果を発揮した事例を数多く経験しました。中でも体の内側から改良、改善するため健康の保持・増進には最適である事が確認されました。

終わりそうな運命を引き継ぐのは…2

飯島先生は、現在問題になっている体の課題に対し、この有機性ヨードが有用な作用を及ぼすことを初めて正確に解明されたわけです。そして、先生のご依頼により、誰でもが安心して利用できる、有機性ヨード含有【健康食品】開発へ向けて、作業が開始されてゆくのです。


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